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フェミニズムとDV、カウンセラーの心構え

2004年6月24日(木) Vol.09

5月6日(vol.2)、27日(vol.5)に引き続き、交流分析を主に講義する先生の授業だった。

まずは、前回の続きでフェミニズムに関する話。

私たちは、知らず知らずに取込んだ性役割や、自尊感情、対人関係における自己開示などの価値観があり、それにとらわれて物事を図っている。

自分の価値観を知ることは、自分の生き方に繋がり、クライエントと向合った時、自己の価値観にとらわれず、クライエントを受容できることに繋がる。

先生からは、DV(ドメスティック バイオレンス)についてのお話もあった。

DV加害者になる側に多いのは、社会的立場の高い人が目立つ、公務員、先生、医師など。

DV家庭で暴力の的にされるのは、エゴグラムのACが高い女性が多いそうだ。

DVがどんどんエスカレートしてしまう背景のひとつには、緊張期、爆発期、ハネムーン期と呼ばれる周期があるという。

  • 緊張期は、また暴力を振るわれそうな気配に怯える期間。
  • 爆発期は、暴力にさらされる期間。
  • ハネムーン期は、暴力を振るったことを詫びたりして、そんなことはなかったかのように優しく接してくる期間。

これらを繰り返されると、暴力を受ける側の感覚が麻痺してくるそうだ。

クライエントが共通して言うのは、「夫は、いつもはやさしいんです」などという言葉だそうだ。

これは、ハネムーン期のことを指しているのだが、実際には、そう思い込もうとしていたり、そう思い込まされるような感覚の麻痺がある。

ACが高い女性が、標的になりやすいのは、自分が悪いからだと思い込んでしまい、自分さえ我慢すればいいのだと考えてしまう傾向が強いからだろう。

暴力を振るう側も、そういった女性を無自覚的に、鋭い嗅覚で選択しているに違いないと私は思った。

DVを受けた女性に対しての支援で、駆け込み寺のようなシステムはあるが、DVを振るう側を更生させるシステムは日本では確立されていないようだ。

海外では、一定期間ある施設に隔離して更生させるシステムがあるという。

DVでもうひとつ大変重要なことは、DV家庭における子供への影響である。

DV家庭で暴力を見て育った子供は、自分が暴力を受けていない場合でも、大人になった時、父親と同じことを繰返す確率が高い。

また、夫が妻に暴力を振るい、妻が子供に暴力(児童虐待)を振るい、その子供が大人になったとき、また自分の子供に暴力を振るう。この暴力の連鎖が最も重要問題ではないだろうか。

昨今、子供の残虐な事件が相次いでいるが、こういった子供を作り出しているのは、大人達であることは間違いない。

人も動物も、みな手本とするものから学習して自分のものとして習得していく。それを思えば、常に暴力が身近にあるならば、それを覚えないはずがない。卵から孵ったひなが、初めて見たものを親と思い、刷り込みが行われる。

それと同じように、物事の善し悪しにかかわらず、影響力の強い身近な親の価値観を知らず知らず、無自覚的に取り入れているとすると、どこかで断ち切らなければ、暴力の連鎖は永遠に終わらないのだ。

DVの根本的な解決は難しく、まず、暴力を振るう人間から遠ざかること。これが第一歩だ。暴力、暴言などが始まったら、その標的にならないこと。標的がいなければ、エスカレートする暴力に歯止めをかけられる。

本当は、こういう社会問題をTVなどでどんどん取り上げてほしいと願ったりする。

自分がDVを受けている、または、振るっているという自覚がない人が多いと思う。

ドラマ視聴率が停滞しているのだから、夜の時間帯でのDVを取り上げたドラマなどを作ってはどうだろうか?

家庭という閉鎖された場所で、DV被害者、加害者に少しでも早く気づいてもらうために。

後半、河合隼雄氏「人の心はどこまでわかるか」よりその内容について、先生からお話がある。
(河合氏は、臨床心理学者で心理学の世界では有名な方。)

ここでは、私が特に気になった部分を取り上げたいと思う。

冒頭の心の専門家とは、から
「わかった」気になることによって、心という怪物と対峙するのを避けるのだと言っていい。

そのとおりだと感じた。悩みを抱え、何か解決を見出そうとするとき、本などを読んで、表面的に理解することというのは、よくあることだと思う。

私は過去に、心の問題は理論や理屈ではなく、実感として理解できて初めてわかったといえるという経験をした。

つまり、自分の心や人の心に向合うことは、とても難しく、辛さを伴う。

だからわかったつもりになり、対峙するのを避けてしまうということがよくわかる。

また、人間の不可解な部分に向き合う、という部分からは
「自分こそ適任だ」と思うような人は、あまり心理療法家に向かないということ。

自分の人生経験を活かしたいと意気込むことは、心理療法家に必要な根本姿勢とはまったく逆の姿。

自分は弱い人の気持ちがよくわかるので、そのような人の役に立ちたいと思うような人も問題。

この部分も非常に的を得て、わかりやすいと感じた。

カウンセラーという役割を理解できていれば、この文章に納得できるが、ここで言っているのは、全て自己が大きく関わっているという点だ。

自己ありきで、ここにはクライエントが存在していない。

カウンセリングする時、このような気持ちで行えば、自分がクライエントを助けてあげるとか、自分の人生経験からクライエントを立ち直らせてあげるとか、私は弱い人の気持ちがわかるので、自分と同じような人を救いたいとか、自分と同じ様な人を救いたいと願いながら、実はそのクライエントに自分を見ていたりして、自分を救おうとしていたりすることが、あるのではないか?

自分の価値観をふりかざしカウンセリングをすれば、クライエントの価値観を否定することだってあり得る。

クライエントに共感し受容することは、難しくなる。

以前、カウンセリングの先生をしてくださった方から、こんな話を聞いたことがある。

「クライエントがたとえ殺人者でも、カウンセラーはその行為を否定したりしてはいけない。」

私は、クライエントを無条件にあるがままに受け入れるということは、そういうことなのだと驚くとともに感激した。

カウンセラーは自己の価値観との葛藤の連続ではないかと感じたりもした。

他資料から「自他尊重の自己表現、アサーションについて」からも、カウンセラーとして身に付けておかなければならないことが、取り出されている。

差異を分かち合う能力を身に付けるから

「自己分化」とは知性と感情を分けること。自分の中で、気持ちをきちんと把握し、相手の気持ちと区別しながらコミュニケーションすること。

自分の感情にとらわれてしまうこと、自分と他者との間に線引きができないことの弊害、たとえそれが家族間であっても、このコミュニケーション能力は必要だと感じる。

カウンセリングの勉強をする人に限定せず、こういったものを学ぶ機会が増えれば、もっとみんな生きやすくなるだろうに。

ほかには、金子みすず童話集「大漁」「私と小鳥と鈴と」が取り上げられた。

「大漁」では
朝焼小焼だ、大漁だ。 浜は祭りのようだけど 海のなかでは何万の 鰯のとむらいするだろう

「私と小鳥と鈴と」では
みんなちがって、みんないい と言っている。

どちらも、個々の立場によっての違いを見事に表現しているものだが、この違いや個性というものを理解しているつもりでも、普段の生活の中で活かすことは難しい。

それは自分の価値観や欲求に縛られているからだ。

他人を見るとき、その価値基準しか知らないため、自分のモノサシでしか物事を捉えられない。それが他者との弊害を生むことになる。

違うという事実だけを受け入れることは、できそうでいてとても難しい。

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